近 況

なかなかブログ更新できず申し訳ありません。稽古を含め決してお休みしていたわけではありません。

むしろ、9月の奉納演武後は、大神様のお陰なのか、大変活発な兵法会であります。


先月10月はというと、原点に戻り、基本稽古の「続け打ち」4000本打ち込みを個人的目標に掲げ稽古に励んでいました。

結果は、一箇月のうち14日稽古できて、続け打ち4028本でした。1日平均約287本。昔の門人(武士)には程遠く、真似事にしかなりませんが、多忙な現代人でも、少しでも当時の偉人達先輩方にに近づきたいものです。

故奥田真夫先生の愛弟子である別府師範との会話の中で、小太刀の技の話になり、現代そして次世代へその技を継承する為に、プロトタイプの小太刀が完成しました。

寸法、形状ともに、薬丸本家、奥田先生、そして別府師範に託された小太刀を現代に蘇らせたカタチになりました





先日は、宮崎県の本籍地へ行き、祖父母の墓参りと親戚の挨拶まわり。


叔父から作ってもらったスヌケ太刀木刀とユス小太刀木刀。そして屋久杉の刀掛け。

やっぱり想うことは一緒。やはり…親戚だなぁと思う今日この頃です苦笑



帰りは、郷土史の串間市史を編纂された、当市の歴史の第一人者である郷土史家のT先生のご自宅へ。

94歳のご高齢でありますが、それはそれはしっかりしており、ピンと伸ばした背筋が印象的でした。

 

先生の家は、明治初めまで代々、見廻り役と庄屋を兼ねていた家柄であり、「宮崎県史史料編近世4」の藩士分限帳で、たまたま私の高祖父と一緒のページに掲載されていたことが知り合うきっかけにもなりました。

そして、今まで探していたその古文書原本写しを先生からお見せて頂き感無量。

また、会話の中で、串間市にある五輪塔や神社が肝付家の特徴的なものであること、大隅の弁済使であった肝付家の祖・伴家が意外にも串間市も治めていたこと、薬丸兼将のこと等、野太刀自顕流に関する話題も聞くことが出来ました。

夕方からは、私の本籍地の郷土史家と一緒に古墓の調査。

宝暦時代(1750代)の古い墓にもも関わらず立派な墓も発見されました。

日向地名録(明治期)によれば、山間の辺鄙な同地区の人数は、合計1243人。その内訳として士族335人、平民908人。3.7人に1人は士族。全国だと士族数6%。麓も無いこの村にしては、ありえない異常な割合。これもようやく、謎が徐々に明らかになってきました。

やはり、島津家・肝付家一族や家来がこの一帯に土着していたこと。江戸初期、秋月家が串間から高鍋に移る際に、家臣団の中で、それに従わない武士がおり、罰則として家禄1/10に滅されたこと。この村で、九州規模に匹敵する大規模一揆が何度も発生し、高鍋藩(秋月家)が苦慮していたこと。

そして、野辺氏の前は、伴氏(おそらく伴兼貞)が櫛間院を治め、同村は櫛間院最初に誕生した村で、大変歴史のある土地柄であること等が判明しました。

また、同村で現代まで受け継がれている棒踊りも、当時の野太刀流が関わっている説も否定できなくなってきました。

 

 

史跡めぐりの後は、墓参りも兼ねて、大本家の敷地内にある番所(関所)跡へ。

その庭先に立つ樹齢数百年の古くて巨大な神木があります。

関所の両脇を見守るように約40㍍先にも同様の神木が立っています。


しかしながら、関所ならではの聞いて恐ろしの言伝えが、大本家に今に残っているのも事実。


 

 

先祖達は、どうい気持ちでどういう想いで役職についていたのだろうか、当時本当に積極的に執り行っていたのか、ではその末裔はこれからどうあるべきなのか。最近は、色々と考えさせられるものがあります。